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私が考えるいじめの解決方法に大切な事 3 甥へのいじめ 6

甥の壊れた心をまとめる前に、母である私の姉について書こうと思います。いじめの行為だけがいじめられる子の心の傷を作るのではないと私は思います。

 甥の母である私の姉の自身の子供への対応は、私は中学・高校を通じてもっと熟慮すべき点や関係者との関わりや相談が必要な事が一杯あった様に思います。姉の中には、自分自身にも自分の子供にも、起こった事に対する対応を決めてかかります。それは、妹である私に対してもそうでした。それ以外のやり方は“自分勝手”であり、“他の方法はあり得ない”と決めてかかってしまう傾向があるのです。その事に、周囲もまた諦めて口を挟めない事が多々ありました。

 自分自身も、販売自営業をしている両親の元に長女として生まれ、男子の誕生がなかったので、後を継ぐ事が約束された様に育てられました。結婚相手さえ父や夫として選んだ人の父親に中学の頃から将来を決められていました。それは適齢期になって恋愛のお相手が出来、お話は消失しましたが、自身が継ぐかその子供に継がせる事を父は考えていた様です。結婚後、1年して生まれた子が男の子(甥)だったので、生まれた知らせに父の安堵感はいかばかりだったかと思います。

 甥は、その期待を背負いながら育ちました。大学生活を楽しむというよりは、自営の店をほぼ毎日学校を終えた後に手伝っていました。甥自身は、商売が好きだったので、決して苦痛ではなかったと思いますが、楽しい学生生活にはならなかったのではないかと思います。アルバイト代ももらわずに仕事を続けました。

 その上、残念な事に父が75歳の時に自営の店をたたむ事になり、卒業後本格的に店で働き始めた甥は、仕事を失う事になってしまいました。それまでの人生計画に大きな転機を迎え、自身の祖父からは詳しい説明がなされなかった事と決定を下す話し合いに甥が加われなかった事がその後の人生に大きな変化をもたらしてしまいました。商売関係での縁故を辿って就職もしましたが、2年も持たずに退職しました。その後は、直接お客様との関わりのある販売業をしていたわけではないのですが、父が起こした会社は会社組織としては残っていたので、残った資産の運用などで生計を立てながら今日に至っています。

 傍にいながら、私は姉や甥の考え方や生き方に疑問を感じていました。姉は、高校を卒業した時の甥の感想に、甥の今後の生き方を考えてあげる必要があったのではないでしょうか?形式的に長男だから家を継ぐ・・・ではなく、甥が販売業を営み、その長となって会社を継続出来るのかどうか?甥自身は本当は何をやりたいのか?一度きちんと話し合ってあげるべきだったのではないかと思います。

 継がせるつもりだった私の父は、自分の体力の衰えや一緒に経営に携わってくれていた叔父の高齢化に継続の難しさを実感していたようです。世の中も、同じ物を扱う店舗はどんどん大型化し、買う側も大型店舗に流れて行くようになり、売上の伸び悩みが続いていた事も継続は困難であると考えた一因だったと思います。甥にも、大学を卒業する頃には、『就職活動をして、サラリーマンが良いんじゃないか?』という様になっていました。そう言われても、甥には危機感はなく、今までの流れのままで毎日を過ごしていました。

 いよいよ、店舗をたたむ事を決心した父は、働いて下さっていた数十人の従業員の今後に大きな責任を感じていました。新たな就職先や、退職後に直ぐ困らない様に出来る限りの事をしてあげたいと奔走し、知り合いにもしつこい位対策の相談に乗ってもらっていました。ここでも姉は、今後の甥の事より、『お父さんが辞めると決めたから・・・』とそれに従う事と、その後始末のために自分は何をしたら良いかだけを考えていました。私から『全ての従業員の方にこのまま継続して働いて頂く事は出来なくとも、残って頂ける方で小規模になっても継続の道はないか探ってみても良いのではないか?』と声をかけてはみたのですが、『お父さんは、聞き入れる人ではない。』の一点張りで、話そうともしてくれませんでした。

 店をたたむ前に父は甥に店を遺してやれなかった事を詫びに来た様です。借金の為に土地や店舗を手放さなければいけなかった状況ではありませんでした。働いて下さった方とも一人一人と面接をし、自分が出来る最後に支払う給料と退職金の提示、次の就職先の確認など、やるべき事は、きちんとやっていたと思います。その事で相談に行った区の職員の方にも『そこまでやる方はいらっしゃいませんよ。もう十分です。それ以上は必要ありません。』と言って頂いた位でした。それでも、十分ではないのではないかと悩んで、眠れず、少し鬱状態だったんだと思います。甥の今後も、生きていけるお金があれば良い・・・とだけしか考えられなかった様です。でも、父が詫びにきた時に、姉も甥も考えがまとまらない父の言う事に従い、縁故を辿って就職すると言う選択だけではなく、存続が可能な店舗を維持し、新たなスタートを切るための提案をすべきだったんではないでしょうか?寧ろ、父の若い頃からの古株がいて働き辛い状況を維持するより、残ってくれる若い人達と新たなスタートが切れるチャンスでもあったのではないかと私は思います。今も甥は、きちんとした職業につき働く事が出来ません。

 一方、甥の妹である私の姪もそんな母親の言う通りに生きて来ました。受験する学校、習う稽古事を継続する決定権、どんな事にも姉の決定が絶対でした。でも、大学の何校かに合格し、どこに入学するかについて初めて両親に逆らいました。学校としては親の薦めた知名度の高い学校ではなく、卒業時に得られる資格のあるなしで知名度が低く、学校としての規模も小さい所を選びました。でも、その学校を選んで資格を得たお陰で、今もその職種で働き続け、更なる資格も働きながら得て、キャリアアップもしています。卒業後、就職してから先輩や同僚から話を聞く機会が増えて、自分のこれまでの生き方や考え方に間違った所がある事に気付きました。就職して1年にならない頃だったかと思います。母親の呪縛から逃れたいと思い『これからは、こうやって生きたい。』と自分の気持ちを話した様です。その時の母親の返事は、『そういう生き方がしたいなら、家を出るしかないね。』と言われ、自分の気持ちを解ってもらえなかったようです。その後間も無く、姪は家を出て一人暮らしを始めました。それから少し経って、家族・親戚でクリスマス会を催した時に、姪は大学でかかった授業料を両親に返却しました。自分で選んで、自分で進んだ道だから・・・という自負があり、これからは親の強制する生き方を選ばないと言う確固たる信念だったんだと思います。殆ど自宅には戻らず、結婚も自分で決め、お相手と2人で式の準備をし、誰にも頼らず、自分達で出来る小さいけれど素敵な結構式と披露宴を催しました。式には、私は愛犬のPoohとPuPuも出席できる手筈を整えてくれたので、姪をこの世で一番好きなPoohとPuPuも一緒に参列しました。結婚後も、殆ど両親とは接点を持たない生活を続けています。

 両親の元を離れるという寂しい決断を姪はどれくらい悩んで選んだのか、私はきちんと話せていません。でも、何かが彼女に決断させた。そして、前を見てきちんと歩いています。『お兄ちゃんは、ママから離れられないからあのまんまなんだ。』と言います。私も、甥は先ず母親から離れて違う世界を見る事が何よりも先決で重要と考えています。そのための手立ても何度か試みました。でも、出来ないまま今に至りました。相談した第三者の方の殆どが、『巻き込まれないように、あなたが離れた方が良い。』とだけアドバイスして下さいます。でも、それでは、甥は前を見て歩けない。力になってあげたいです。その為には、甥がほんのちょっと視点を変え、ほんのちょっと今の立ち位置を離れるだけで始められると思うのです。でも、“猫の首に鈴は掛けられない!”・・・なんです。

 今の甥を形作ってしまったものは、いじめだけではありません。味方をしてくれる筈の身近にいる人の間違った導きも大きく影響してしまいます。お恥ずかしいですが、そんな良くない例を身近で経験し、今もその対応に悩み続けているので、その思いをちょっと打ち明けてみたかった、無力のバーバでした。

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